岩槻城

<城名> 岩槻城(別名・白鶴城、竹束城)
<所在地> さいたま市岩槻区太田(2005/04/01 さいたま市へ岩槻市編入)
<主な城主> 太田道灌・資家・資正(三楽斎)
<遺構> 土塁、空堀、櫓台(県指定史跡)
<交通> 東武野田線「岩槻」下車、徒歩約30分。
<紙面掲載>1997/04/24

<歴史> 築城者は太田道灌とも、父・道真ともいわれ、はっきりしない。別名の白鶴、竹束は岩槻城の築城方法から。「道灌が沼地の築城を悩んでいると、白い鶴が浮かんだ竹に止まった。これを見て道灌は竹の束を編んで、土を盛り、沈める工法を作り出した」。現在の遺構のある場所が道灌時代のものといわれている。三楽斎は最後まで後北条氏と敵対していたが、嫡男・資房は北条氏康と内通。父の留守中に後北条兵を城内に入れ、父を追放(常陸・佐竹を頼る)してしまった。氏資戦死後は後北条直轄領となり、「小田原の役」落城後は徳川家臣の高力清長の城になった。江戸時代には江戸防衛の需要拠点として代々譜代大名が居城。

<史跡歩記> 岩槻公園として整備されているものの、新曲輪・鍛冶曲輪の高い土塁は必見です。空堀底には土管を埋めた「障子堀」の説明もあります。石碑は別名「白鶴城」とあります。水堀や沼地も残存しています。公園には移築された江戸時代の門が2つ残ります。あまり知られていませんが、他にも民家の門として市内2カ所に残っています。本町3丁目の「愛宕神社」には惣構えの土塁がわずかに残ります。市街地化によってここだけになってしまいました。


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移築門 移築門 石碑 土塁・空堀・畝堀説明 惣構え

民家移築門 憧れだった東武日光線きぬもあります

2004/07/31
二の丸発掘調査現地説明会の様子です。宅地建設のための調査です。三の丸(武具蔵)−二の丸(車橋枡形)間の堀幅がはっきりわかります。江戸時代の部分は明治初期に破壊されているので、戦国時代を中心とした調査になっています。車橋枡形にあったと思われる塀(または門)の瓦や、東照宮を参拝する将軍用の通路(砂利道)が発見されています。調査から戦国−江戸にかけて大きく改造されていることがわかっています。江戸時代には地表より+3mの土塁があったと推定されています。車橋の柱穴はあくまで推定で確証はないとのこと。

車橋枡形の調査 二の丸(車橋枡形)から三の丸間の堀を見る 説明会の様子 戦国前の地表(黒い部分)と戦国時代に盛られた土(茶 車橋の柱穴?

三の丸(武具蔵)から二の丸を見る 破壊され崩れた瓦

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