城主

◆ここではハンドル名の由来・地黄八幡について紹介します。

地黄八幡(じきはちまん)とは?
 「地黄八幡」とは戦国武将「北条上総介綱成」(つなしげ)のあだ名です。今川家家臣・遠州土方城主福島正成の子。正成は武田家に討たれ、家臣とともに北条氏綱を頼りました。氏綱のもとで養育され、父の名の「成」と氏綱の「綱」の一字ももらい、「綱成」と名乗ることになります。戦功を重ね、氏綱の信頼を得ると、北条氏康の弟、為昌の後見人として相模国玉縄城城代として入城。実子に恵まれなかった為昌の養子となり、為昌の死後三代玉縄城主となりました。氏綱の娘を妻とし、北条家一門衆になります。

 綱成は猛将で、北条氏五備(五家老)の黄備を担当。合戦になると「勝った! 勝った!」と叫びながら真っ先に敵陣に突入し、黄色の練貫に『八幡』と墨書した旗を指物としていたため、その綱成の姿を「地黄八幡」と呼び、敵から恐れられました。 武勇だけでなく、氏康の名代として外交手腕も発揮しています。 

 1546年、河越夜戦では攻城軍8万の軍勢に3千の兵で河越城に籠城。綱成は氏康からの「城を守り、後詰めの軍を待て」の指令で半年に及ぶ籠城を耐え抜き、援軍の夜襲に応じて古河公方足利晴氏の陣を攻め、古河へ退却させました。氏康の死後、1573年に出家。道感と号して、家督を嫡男康成(後の氏繁)に譲りました。1587年5月6日没。享年73歳。

城跡を見ると「地黄八幡」のように真っ先に突き進みたいと思っています。 

ハンドル名・地黄八幡
昭和42年生まれ
173cm、66kg(公称値)
昭和61年、某新聞社に入社。
好きなもの・史跡歩記、車、デジカメ、寿司、お酒、ドラゴンズ

【写真は小倉城の石塁】
2009/03/29 「中田正光氏と歩く滝山城オフ」

「埼玉の古城址」著者・中田正光先生とのツーショットです。

NPO法人「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」主催のものです。
憧れの先生にお会いできてうれしかったです。
「埼玉の古城址」にサインをしてもらいました。

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